2013年10月10日木曜日

パトリシア・チャーチランド『脳がつくる倫理』

自分は神経科学の専門的な知識はもってないし道徳の生得性についての議論も追えてないので
チャーチランドのアプローチに対してあり得る疑問・誤解を書き出し自分にわかる範囲でそれに答えるということをやってみる。


Q1.倫理学的な問題がすべて「神経科学」で答えられると思っているんですか?

チャーチランドは終盤に「これまで論じてきたことは科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない」と書いていて慎重な態度がうかがえます。基盤は基盤にすぎず、「どんな戦争が正しい戦争か」「相続税は公正か」といった問題に対しては、依拠するにせよ批判的に乗り越えるにせよ、これまでの哲学者(倫理学者)の議論の蓄積が生きてくると思います。じっさい本書ではアリストテレスやミル、ベンサム、ロールズからマッキンタイアまで多彩な顔ぶれが参照されています。ただ我々が現実に道徳的ジレンマを解決する際に関わっている類推、感情、記憶、想像力などについて経験的探求によって解明され、それによって賢明に考えられるようになるなら、そういう可能性を受け入れてもいいんじゃない?というのがチャーチランドの立場だと思います。


Q2.人間には生得的な道徳器官が備わっていると思ってるんですか?(1と似て実はけっこう異なることに注意)

ほとんど誰でも知っているように、新生児殺しを認めたりとか殺害した敵の肉を一口で食べるのを善しとしたりとか、人間の文化にはいろいろありますね。人々の生活を律する価値の中で、社会的実践および文化一般についての探求が重要だというのは、もちろんそうです。
「道徳に生得的なものは何もない」というと、なんだか解放感を伴うので一般にウケるのかもしれませんが(これは実験哲学者Knobeもいってた)、「学習」だけで道徳をすべて説明しきれるでしょうか。
チャーチランド自身は生得的な道徳器官についての探求にあまり積極的ではないようです。
HaidtやHauserといった生得性を主張する人々に対して辛い点をつけています。ですが「道徳に生得性はない!」という強い主張というより、ハイトやハウザーの説にはまだ反例があるけどアプローチ自体は悪くない、というスタンスじゃないかと思います。当然チャーチランドに反論する人がいてもいいと思いますし、Mikhailが書評で「道徳は経験から(学習する)だけでは説明しきれないよ」と反論しているようです。
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2194455


Q3.オキシトシンが道徳そのものだといいたいのでしょう?

チャーチランドはあくまでもオキシトシンを、遺伝子-ニューロン-神経化学物質-環境の間の相互作用、さらにニューロン、身体間の相互作用からなる複雑で柔軟なネットワークの一部分にすぎないと書いています。


Q4.「消去主義」といって素朴心理学を消去*1 しようとしているのではなかったか

本書では「信念」や「欲求」といった語がちょっとだけ出てきますが、信念体系の整合性や合理性を中核とする素朴心理学(=解釈理論)が措定する理論語としての「信念」や「欲求」(英米系の哲学の業界用語です)とはまた異なっているように思います。McCauley(1996)は「チャーチランド夫妻は(素朴心理学に対して)近年プラグマティックな傾向を強めてきている」と書いています。それももう17年前のことになってしまいましたが。


余談ですがチャーチランド夫妻の息子と娘は神経科学者で、神経科学についての記述の間違いを直してもらったんだとか。
息子さんは母親似かな…

脳がつくる倫理: 科学と哲学から道徳の起源にせまる


*1:理論の還元はニュートン物理学が特殊相対性理論の特殊ケースとして位置づけられたように、旧理論が新理論に包摂されるが、うまい還元先が見つからないと還元に失敗し、先行理論が後継理論に完全にとって代わられる、とされる。