2015年8月12日水曜日

ポール・ポートナー『意味ってなに?――形式意味論入門』

言葉なんてのは物心ついたときから身近なものであるし、さまざまな思想・哲学・科学で探求の対象とされてきたこともあって、明示的であれ非明示的であれ、ほとんど誰でも何らかのコトバについての信念や理論に肩入れしてることと私は(勝手に)思っているのだけど、自分が肩入れしてきた言語の理論とか信念と衝突することが書かれている本なんかを読むと「なんかちがーう」と思ってしまうということも(他分野と比べて)多々あることと思う。

本書は「形式意味論」という分野の入門用のテキストで、記号を使った形式的アプローチ、と聞いただけで反発してくる人もいそうなんであるが、そんな人こそ本書のターゲットとするグループ(のひとつ)といえる。

というのも「初学者の中にはこんな風に思ってる人もいるでしょう。でもね、そうともいえないんだよ」と初歩的な誤解をするする解いていく著者の手腕が見事なのだ。
私自身この分野についてよく知らないままいくつかの疑問を持っていたが、すべて解消されたわけではないものの、その多くは払拭されたように思う。

また、著者は正直にうまく説明できないケースも紹介していたり、対立する見解となる「観念理論(注1)」に対しても中間を取ることが可能であることを示すなど、入門書としてとてもフェアなものになっている(といっても著者はただの根無し草ではなく形式意味論に軸足を置きいくつかの主張も行う)。

しかしながら形式意味論について入門レベルをクリアした人からでも、反論はありうるだろうなとも思う(たとえば「指示」についてはチョムスキーの指示主義批判などがある。)。とはいえ、時制、アスペクト、様相に関しての研究は他の伝統と比べて形式意味論の強みだと思うし、他のアプローチだって問題がないわけでもないのだから、交流しながら発展・洗練していけばいいわけだ。その点で本書は形式意味論に手引きする本であることはもちろん、不必要な対立を減らし、形式的アプローチと他のアプローチとの架橋となるような一冊にもなっていると思う。


訳者の方によるサポートサイトがこちら。活用しましょう。

意味ってなに?|サポートページ



(注1)本書においては心理学的アプローチのことであり、知覚される時だけ物は存在するのだ的な観念論のことにあらず。

2015年4月12日日曜日

ハーレー+デネット+アダムズJr.『ヒトはなぜ笑うのか』

本書には長期記憶、ヒューリスティクス、ワーキングメモリといった認知心理学用語、信念や志向的といった(分析)哲学用語がよく出てくるのでこれらの語に慣れているとそれなりにすらすら読めると思うが、逆に慣れていないと(簡単な説明があるとはいえ)少しつらいかもしれない。





人は笑う。
「いないいないばあ」で笑う赤ちゃんのように世界でもかなり広く見られるものもあれば、「香川県民はうどんが好き」というステレオタイプを利用したジョークのように特定の知識をもっていない人には伝わらないものもあったりする。

ユーモアや笑い(この2つは完全に重なるわけではないが)は進化にかかわるレベルと背景知識や好みの違いに左右されるレベルがあり、それゆえに心理学者、認知科学者と哲学者の共著というスタイルはユーモアや笑いを探求するのに必要ということなのだろう。

本書では哲学にせよ科学にせよ先行研究をかなり周到にサーベイしているのだが、哲学系ではカントやショーペンハウエル、ベルクソンといった哲学者の理論が紹介される。これは哲学の業界の事情に通じている人にはちょっと意外に感じられるかもしれない。しかし、大御所の哲学者の参照といっても、雑にイチャモンつけたり、権威論証に使ったりといったことは無縁で、よく読んだ上でこういう事例には当てはまるがこういう事例は説明できない、という風にフェアに検討している。

著者たちが過去の理論家の利用できる部分を取り入れた上で新たに提示する仮説を短くまとめると次のようになる。

我々は自らが暮らす環境についての完全な情報を持ち合わせていない以上、ヒューリスティックな飛躍を続けざるを得ない。そして推論の飛躍をした後には、誤りを繰り返さないように正しいかどうかについてのデータの維持管理、強化・抑圧する仕組みが必要になってくる。そこで、「甘さ」の快感がエネルギーたっぷりの果物を探し求める動機付けになるのと同様、個人史で形成された信念であれ文化的に共有された信念であれ、ヒューリスティックにコミットされたワーキングメモリ信念に不一致を見出したときに報酬を用意して、知識・信念のバグ取りをする動機付けとするよう進化した。この報酬がユーモアの情動=おかしみというわけだ。

ワーキングメモリ信念はそっと活性化されたものでなければならないしその活性化はしかるべき順番を追わないといけないし、タイミングも外せないし、相対的な強弱も正しくつけないといけないし、必要な内容のリソースだけがもれなく見つからないといけない。

これらは志向的構え(intentional stance)のフレームワークでなされる。つまり分析はすべて聞き手の視点でなされる上に、さらには聞き手によって再帰的に構築された他のエージェントによる志向的な構えからもなされるということ。


ここだけ読むと「本当かな?反例ないかな?」と思われるかもしれない。
そういう方は第10章「反論を考える」、第11章「周縁例」をじっくり読んでもらいたい。「チェスやスポーツの失敗」「ひどい危害が及ぼされるイタズラ」「だまし絵」「くすぐり」の説明など予想される反論や実際寄せられた反例に答えている。

本書は13章の「ユーモアのセンスをもったロボットは作れるか」のように、ロボットにユーモアを理解させるにはヒトと同じように認識上の(知識を得る上で)様々な苦労をしょいこませた上で情動を備えなきゃいけないといった人工知能的なトピックや、情動や認知モデル(古典主義とかコネクショニストモデルとか)についてのここ数年の認知科学の成果、さらには認識論(知識の哲学)への含意までとりあげており、事例のジョークがどうも合わない、もしくはユーモア自体に関心がないという方でも、認知科学や心の哲学・知識の哲学に関心があれば是非すすめられる一冊になっている。著者たちも「批判は歓迎する」と書いているので、有名な著者だからと流されずに反例など考えながら読むのもいいと思う(しっかり読み込んだ上でというのはもちろんのこと)。


気配りの行き届いたことに本書には訳者の方が作成したサポートページが用意されている。ぜひ活用しましょう。
ヒトはなぜ笑うのか|サポートページ







2013年11月2日土曜日

情動 Prinz(2012)

The Cambridge Handbook of Cognitive Scienceの10章、哲学者Jesse Prinzによる"Emotion"の読書メモ



情動は注意や記憶とも関わっており、行動を導くのに重要な役割を担っている。
我々はある情動については求めたり、また別のある情動については避けようとする。
情動がなかったら我々はまったく別のイキモノになっちゃうだろう。

10.1情動の原因

10.1.1認知的原因

「認知」という語はいささか厄介だ。というのも異なる研究者で異なった仕方で定義されうるからだ。
思考や推論は、自発的でも自動的でもありうるが、外界からの刺激の単なるコピーとはいいがたい。それは概念を使用する。
この章で「認知」といったらそういった思考や推論の意味で使う。

思考が情動を引き起こすとは広く認められている。けどそれってどんな種類の思考だろう?
「雪は白い」とか「3は素数」はほとんどの人には大した影響を持たない。情動を引き起こす傾向があるのは「評価」についての語だ。
例えば「ナイフは鋭い」という思考は情動を引き起こさないであろうが、「ナイフは危険だ」という思考には情動がついてくることはありうる。

心理学の実験によって、同じ映像に対して異なる被験者に異なる物語を与えると、被験者は映像内の出来事に異なる評価を下し、結果として異なる情動を引き起こすことがわかっている。
人が人を殴っているのを見ても「弱いものいじめ」か「ボクシングの試合」かで評価も情動も変わるといった具合に。

このような思考単位では荒いと考える研究者もいて、情動間の違いを説明するのに十分と考えられる数の評価次元を同定する「次元的評価理論」が提唱されている。この理論では「思考」に「分子的評価(molecular appraisals)」が取って代わるとされる。

各情動の生起段階は、外的および内的状況が動機や価値と関連する複数の共通する次元に沿って評価され、それらの組み合わせで情動の種類が決定されるとされる。例えばSchererなら「関連性」、「対処可能性」「規範的重要性」などを、Rosemanなら「新奇性」、「状況の状態」、「統制可能性」などを提唱している。

次元的評価理論は広く受け入れられているわけではない。
「分子的評価」は我々の情動に影響を与えはするが、情動の引き出しに必須ではなく、実際、次元的評価理論の理論家はプロセスの構成要素というより情動についての意味論的分析の一部分と認める者もいる。

「こしあん」にせよ「つぶあん」にせよ多くの心理学者が情動の引き出しに認知的状態を想定している。

10.1.2非認知的原因

視床は上丘経由で扁桃体とつながっており、視神経といった変換器から情報を受け取る。それゆえ視覚情報は新皮質に届く前に扁桃体に送られる。これはおそらく「巻かれたロープを蛇と一瞬見間違える」ような時に起こっていることである。
脳がロープだと分類する頃には、「自分は危険ではない」と知るが、その前にすでに恐怖を経験しているということである。

情動は単純な知覚入力に引き起こされると考える理由は他にもある。
心理学の研究によれば本人が認知的に把握せずとも天気や音楽、運動によって情動は引き起こされることがわかっている。

しかし例えばくすぐりがおかしさを、アルコールが歓喜を正当化するわけではない。これらは理由というより原因である。これは独断ということではない。運動をして気分が良くなるといったことは健康に良いことから進化的にプログラムされているのだろう。

しかしこのような解釈を否定し、上のような例は非認知的原因というより、あくまで認知的なプロセスが無意識に働いていると考える理論家もいる。

10.2情動の構成要素

思考も単純な知覚も情動を起こしうることがわかった。じゃあ情動そのものって実際のところ何なんだろう?

一つの可能性は情動は情動を引き起こすものそのものという考えだ。
ここで純粋な認知理論と純粋でない(混交タイプの)認知理論を区別しよう。
純粋な認知理論では、情動とは思考や判断そのものだとする。このような見方は哲学では珍しくない。現代の擁護者はソロモン(1976)やヌスバウム(2001)。

しかしよくある比喩を用いれば情動は「熱(heat)」を持っている。「雪は白い」とクールに判断できても「我々は大変な過ちを犯した」に対して冷淡ではいられなかったりする。情動がただの判断や思考ならこの「熱」が説明できなくなってしまう。

その困難は純粋でない認知理論を採用することで回避できる。すなわち情動は認知的な構成要素と非認知的な構成要素の両方を持つと考えるのである。

非認知的な構成要素は一つしかないと考える者もいれば、スピノザ(1677)のようにネガティブとポジティブの2種類を想定する者もいる。

恐怖はしばしば鳥肌を伴い、悲しみは喉を詰まらせるなど、ある情動は特有の身体変化を伴う。
ここから非認知派は情動とは心的状態ではなく身体の状態だという立場をとることができる。

他に、情動は常に意識的に経験される身体知覚だという説もあり、古くはウィリアム・ジェイムズ(1884)、最近ではダマシオ(1994)が支持している。また、プリンツ(2004)は基本的にはジェイムズに従いつつも必ずしも意識経験である必要はないとする。

非認知派は神経科学からの証拠からも自分の立場を守ることができる。体性感覚皮質、島皮質、前後の帯状皮質、側頭極、前頭前野腹内側部、眼窩前頭皮質といった具合。

10.3情動の作用

10.3.1振る舞いへの作用(behavioral effects)

ひとたび情動が起こると様々な効果を生む。これらを理解することは情動がもたらす機能を理解するのに重要である。
それぞれの情動がそれぞれ振る舞いに結びつくということは良く知られている。
怒りは攻撃、嫌悪は拒絶、恐怖は逃走/すくみ上がる、恥ずかしさは隠すこと、罪悪感は償い、などなど。
希望、プライド、美的快楽(aethetic pleasure)など振る舞いとつなげるのが難しい情動もある。

「恐怖」「怒り」「嫌悪」などネガティブな情動には「抑制」「撤退」「回避」といった共通点があるように思われる。ポジティブな情動も然り。というわけで手始めにこの2つに分けて考えてみよう(怒りは、それに向かうというより根絶したり押し退けたりするものなので、広い意味で回避に分類する)。

ネガティブな情動は中隔海馬と結びついており(Gray 1991)、一般的に言って、止めたり思いとどまったりという振る舞いの傾向があると分類することが出来る。

Chen & Bargh (1999)の実験によると、画面に単語が呈示されたらレバーを向こうに押す、あるいは手前に引くよう教示された参加者は、向こうに押すときは、ネガティブな単語の方がポジティブな単語よりも反応が速かったという。逆に手前に引くときは、ポジティブな単語の方がネガティブな単語よりも速かった。

さらにダマシオによれば前頭前野腹内側皮質を損傷した患者はギャンブル課題でリスクのある選択にネガティブな情動を結び付けられず、リスクの高い選択をし続けるという実験結果も報告されている。

逆にポジティブな情動は通常振る舞いを継続させたり繰り返させたりさせる。

10.3.2認知への作用

Wheatley and Haidt(2005)によれば、人は催眠下で嫌悪を引き起こすように指定された単語が入っている話のほうが入っていない話よりも「道徳的に悪い」と評定したという。

Lerner, Goldberg, & Tetlock,(1998)では、参加者に対して怒りを誘導した後、登場人物(被告人)の怠慢な行動によって犠牲者が生まれるストーリーを読ませたところ、誘導手続きによって強い怒りを覚えた者ほど、被告人の行為を強く罰せられるべきものだと評価する傾向を示した。

他にbouhuys bloem & groothuis (1995)で悲しい音楽を聴かせたグループは、曖昧な表情を悲しい表情と判断する傾向にある、などなど。

情動による振る舞いや認知状態への影響は活発に研究されており、ここで紹介した研究は氷山の一角に過ぎない。

10.4情動研究の他のトピック

情動を表現する能力が乏しい失情動症や、病理学レベルで過度に、または不適切に不安を抱えてしまう人々がいる。
これらは認知行動療法や人生の出来事をよりポジティブに再解釈するトークセラピーでの改善が見込まれる。
認知行動療法にせよトークセラピーにせよ認知的に引き出された情動に対して有効だろう。非認知的な原因である場合は薬学的なアプローチが有効だと思われる。これらは臨床研究の実践的問題であるばかりではなく本章のキモである問題とも関わっている。


10.5結論

省略

The Cambridge Handbook of Cognitive Science

2013年10月10日木曜日

パトリシア・チャーチランド『脳がつくる倫理』

自分は神経科学の専門的な知識はもってないし道徳の生得性についての議論も追えてないので
チャーチランドのアプローチに対してあり得る疑問・誤解を書き出し自分にわかる範囲でそれに答えるということをやってみる。


Q1.倫理学的な問題がすべて「神経科学」で答えられると思っているんですか?

チャーチランドは終盤に「これまで論じてきたことは科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない」と書いていて慎重な態度がうかがえます。基盤は基盤にすぎず、「どんな戦争が正しい戦争か」「相続税は公正か」といった問題に対しては、依拠するにせよ批判的に乗り越えるにせよ、これまでの哲学者(倫理学者)の議論の蓄積が生きてくると思います。じっさい本書ではアリストテレスやミル、ベンサム、ロールズからマッキンタイアまで多彩な顔ぶれが参照されています。ただ我々が現実に道徳的ジレンマを解決する際に関わっている類推、感情、記憶、想像力などについて経験的探求によって解明され、それによって賢明に考えられるようになるなら、そういう可能性を受け入れてもいいんじゃない?というのがチャーチランドの立場だと思います。


Q2.人間には生得的な道徳器官が備わっていると思ってるんですか?(1と似て実はけっこう異なることに注意)

ほとんど誰でも知っているように、新生児殺しを認めたりとか殺害した敵の肉を一口で食べるのを善しとしたりとか、人間の文化にはいろいろありますね。人々の生活を律する価値の中で、社会的実践および文化一般についての探求が重要だというのは、もちろんそうです。
「道徳に生得的なものは何もない」というと、なんだか解放感を伴うので一般にウケるのかもしれませんが(これは実験哲学者Knobeもいってた)、「学習」だけで道徳をすべて説明しきれるでしょうか。
チャーチランド自身は生得的な道徳器官についての探求にあまり積極的ではないようです。
HaidtやHauserといった生得性を主張する人々に対して辛い点をつけています。ですが「道徳に生得性はない!」という強い主張というより、ハイトやハウザーの説にはまだ反例があるけどアプローチ自体は悪くない、というスタンスじゃないかと思います。当然チャーチランドに反論する人がいてもいいと思いますし、Mikhailが書評で「道徳は経験から(学習する)だけでは説明しきれないよ」と反論しているようです。
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2194455


Q3.オキシトシンが道徳そのものだといいたいのでしょう?

チャーチランドはあくまでもオキシトシンを、遺伝子-ニューロン-神経化学物質-環境の間の相互作用、さらにニューロン、身体間の相互作用からなる複雑で柔軟なネットワークの一部分にすぎないと書いています。


Q4.「消去主義」といって素朴心理学を消去*1 しようとしているのではなかったか

本書では「信念」や「欲求」といった語がちょっとだけ出てきますが、信念体系の整合性や合理性を中核とする素朴心理学(=解釈理論)が措定する理論語としての「信念」や「欲求」(英米系の哲学の業界用語です)とはまた異なっているように思います。McCauley(1996)は「チャーチランド夫妻は(素朴心理学に対して)近年プラグマティックな傾向を強めてきている」と書いています。それももう17年前のことになってしまいましたが。


余談ですがチャーチランド夫妻の息子と娘は神経科学者で、神経科学についての記述の間違いを直してもらったんだとか。
息子さんは母親似かな…

脳がつくる倫理: 科学と哲学から道徳の起源にせまる


*1:理論の還元はニュートン物理学が特殊相対性理論の特殊ケースとして位置づけられたように、旧理論が新理論に包摂されるが、うまい還元先が見つからないと還元に失敗し、先行理論が後継理論に完全にとって代わられる、とされる。